西安紀行2005

〜その3

2005.6.25

西安歴史ネタづくし
 旅行3日目、皆さんさすがに少々お疲れである。
 しかし今日も強行スケジュール、さあ行くぞぉーとガイドさんは元気である。先導パトカーも元気一杯、サイレンもけたたましく、遅い車をけちらし赤信号に突っ込み、西安の町を駆け抜けていく。
 今日のメニューは陜西歴史博物館と大雁塔、そして碑林である。うーむ、相変わらず盛りだくさんだが、いずれも歴史ネタである。

 歴史博物館はとにかくでっかい。建物もでっかいが、土地の使い方が贅沢だ。内部もオープンスペースが多い。土地があるんだなあと日本人ならではの感心の仕方をしてしまう。
 なにせ中国四千年の歴史ある。北京原人もいるある。順路歩くと、原人の時代から始まって周や秦などを経て、なかなか先に進まないある。ずいぶん来たなあと思ってもやっと唐の時代ある。清の時代に到達したときはほっとしたある。
 このころから雨が降り出す。

 続いては大雁塔。よくわからないが、紀元600年代に建てられた7層の塔である。7階まで登れるらしい。一番若い私は登るしかないだろうというので登るが、階段が狭いし人が多いし、汗だくになってしまった。
 7階からの眺めは・・・・うーん、雨でガスってよくわからへん。でもまあ唐代の大通りが眼下に伸びて、それなりの感慨は・・・・いや、それ以前に暑い。
 下に降りて、アイスクリームを食べた。チョコレートコーティングのアイスは15元、オレンジシャーベットは3元。なぜ?と思いつつもしみったれ根性でオレンジシャーベットを食べる。日本のと味は変わらない。

 雨の降り続く中、最後に訪れたのは碑林。ここには、様々な石碑が収められている。「昭和」「平成」といった元号を決定する時の出展である孔子のナントカという石碑もあった。悲しいかな、私は書にあまり興味がなくて、漢詩を読む気力もない。外事弁公室の皆さんには誠に申し訳ないのだが、ぼーっと過ごしてしまった。
 やがて1室に入ると、強い墨の臭い。あれ?と思っていると、なんと石碑にでっかい紙をあてがって、上から墨をタンポンにつけてパンパンやっている。石碑の拓を取って、これを売っているのである。あ、あんたら歴史遺産をなんちゅうことすんねんとも思ったが、確かにただ見ているだけではつまらないし、石だからほとんど減るもんじゃなし、これも有効活用か、と妙に納得する。しかし石碑は墨で真っ黒であった。

再見西安
 昼食はしゃぶしゃぶである。相変わらずどかーんと料理が出てくる。肉がなんだかバラバラになるなあと思っていたら、羊肉らしい。また渦巻き麩みたいな湯葉も面白かった。しゃぶしゃぶという比較的なれた料理のせいか、初めての完食であった。
 食事も終わり、民俗芸能の店でショッピングをして、いよいよ西安ともお別れである。

 近代的なホテルに泊まり、ハイテク開発区も見てきたが、やはり西安は長安である。秦の始皇帝、玄宗皇帝&楊貴妃、唐の都・長安、そういったものがとてつもなく分厚い歴史として存在し、それも様々な実物として生活圏の周りに存在している地である。最初の夜に見たダンスショーで聞いたセリフ「1000年の都」、それが西安なのだろう。
 そしてそんな西安の街の中で、710万人のうち、おそらく圧倒的多数は、レンガ作りのアパートに住み、露店市で生活物資を買い、道端ででっかい牌を使ってフリテンOKのマージャンをし、暑い夜には屋上で寝ているのである。蔑んでいるのでは決してなくて、それがスッピンの西安市民だということである。
 対して我々の接した市民は外事弁公室のメンバーや市の要職の面々であり、まあこれは市民使節団だから当然とはいえるのだが、市民と市民の触れ合いもしてみたかったなあという気持ちはやはりある。
 大部分の市民は中国語以外はしゃべれないだろうし、こちらも日本語とカタコトの英語しかできないから、コミュニケーションの接点がないから大変かもしれないが、我々にナマで反応してくれた市民が、「なんで日本人にビールを飲ませなあかんねん」と言ったバーの小姐だけというのもちょっと寂しい気がする。
 今後も小浜市と西安市が交流を続けるならば、またここを訪れる機会があるかもしれない。訪問が頻繁になれば、市民との触れ合いの機会も増えるかもしれない。そのときには、もっと自由な時間の中で、ぜひフリテンOKのマージャンをしてみたいものである。(それかいっ!)

 バスは爆走パトカーに先導され、西安空港に着いた。バスの運転手とパトカーの運転手にもお礼の挨拶をして空港へ。外事弁公室の皆さんの見送りで中に入る。ここで気がついた。ああ、Tさんにお別れの挨拶をするのを忘れた。でも昨夜、「また、この街か小浜で、再見」といっておいたから、まあいいか。
 雨のせいで来たときより気温は10度以上低い。それでも30度前後あるのだが、ずっと涼しく感じる。食べすぎ・飲みすぎによる胃もたれを感じつつ、我々は西安を後にした。

北京夜景
 飛行機は2時間ほどで北京へ着いた。今日は北京に1泊し、明日の午後帰国する予定である。
 と言っても到着が遅かったため、今日は天安門広場を車窓見学するだけで、あとは食事をしてホテルへ直行である。
 空港から北京市内へ向かう。高層ビルや各国の大使館が立ち並び、夜で「あら」が見えない面もあるものの、ああ、北京は都会だ、西安はこれに比べるとずっと田舎だと感じる。まてよ、そうするとわが小浜は・・・・
 大通りは幅50mあり、中央分離帯は簡単に外せて軍用機が離発着できるようになっている。また天安門広場付近を中心に地下には大空間が設けられ、最大1,000万人が避難でき、地下鉄は3層構造で最下層は軍用である・・・・などと説明を受けながら、米ソという2大スーパーパワーの両方とケンカしていた、当時の毛沢東中国の置かれていたものすごい状況を再認識した。
 天安門広場に着いた。中国はどこでもそうだが、建物の外周に照明がめぐらされ、夜には建物の形が浮かび上がるようになっている。ライトアップのほうがいいと思うのだけれど・・・・
 毛沢東の特大肖像画があり、道を挟んで1989年の舞台であった広場が広がる。あの事件以来、夜9時以降は立ち入り禁止だという。

 毛という人は一体なんだったのだろう。建国の祖であることは疑う余地はない。文化大革命という大失政をもってしてもなお、たとえば開放政策を進めたケ小平などよりもはるかに偉大な人物として祭り上げられるのはなぜなのだろう。Tさんいわく、文化大革命のころ、中国の子どもたちは毛沢東をたたえる標語のようなものを言ってからでないと食事も下校も許されなかったという。その四半世紀前のどこかの国のナントカ勅語のように。科学を勉強することは禁じられ、非常に抑圧的な社会であった。Tさんは「今の時代に生まれてよかった。両親の時代は文革の中でずっと暗かった」と言っていた。
 そういえばジョン・レノンも「もし君が毛の肖像画を掲げるのなら、君はどうやったってうまくやれっこないよ」と言っていたなあ・・・・Tさんは毛沢東のことはどう思っていたんだろう。聞き逃したなあ。
 一説によれば、戦争や粛清などで毛沢東により殺された人の数は1億人に達する可能性もあるという。この広大な国の膨大な国民を統一し、米ソというスーパーパワーと対峙し、妥協のない国家統制を行ってきた毛沢東は、今、天安門広場の奥で、死蝋化したミイラとなって展示されているらしい。