非常にガッテン | ||
2005.2.25 |
先日、地元新聞で教育コラムがあって、何の気なしに読んでいたのだが、大納得であったので、引用してみる。
要旨は次のようなことだ。
人それぞれ価値観があるので賛否あるだろうが、私はすべてに賛同する。
なんとなしにイメージしていたものを言葉にしてもらったと感じる部分も多い。ああ、これこそが知の移転だ。
また、様々な事象の関連付けなどで、気づかなかったくくり方も知ることができた。
あくまで私にとってだが、こういう人を「識者」と言うんだろうなと思った。
コラム記事を引用しよう。
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万人に高い学力必要ない 〜成熟社会向け再構築を〜
社会学者・宮台さんに聞く (福井新聞・2005.2.23-13)
「子どもの学力が低下した」との議論が盛んだ。中山成彬文部科学相は事実上「ゆとり教育」の見直しを表明し、国の教育政策も揺れている。父母らは「学力低下論議」から何を学び、子どもたちをどう育てて社会に送り出せばよいのか。
社会構造と教育の関係に詳しい社会学者の宮台真司さんに聞いた。
中世まで子どもは通過儀礼を経れば大人になれましたが、近代社会は複雑な分業体系で、人材を適材適所に張り付ける必要があります。そこで選別と動機づけを担うのが近代の学校教育です。
▽大量の失意
何か幸せなのかを一概に言えないのが成熟社会です。日本も成熟社会ですが、「仕事での自己実現こそが幸せだ」と思い込む親が多過ぎます。
成熟社会ではマニュアルに従えば誰でも役割をこなせるサービス業が増えます。学力が低くても社会常識があれば足ります。仕事は糧と割り切り、趣味や消費での自己実現を図る生き方が評価されていい。世の中は創意工夫を要する高度な仕事ばかりじゃない。仕事での自己実現やそのための学力を迫る教育は、大量の失意と落胆を生みます。
創意工夫の必要な仕事には競争を通じた選別と動機づけが不可欠で、学力が問われるのはそうした仕事に就く人材です。万人に学力が必要との発想は時代遅れで、希少なポストをめぐる学力競争から降りるのも大切です。仕事だけが人生じゃないから腐らなくてもいい。かなわない相手と張り合うのはやめ、リスペクト(尊敬)すべきです。
▽三つの条件
教育による序列化は不可欠ですが、条件が三つある。まず、失敗してもハンディを負わずにやり直せること。特に親がかつて失敗したからといって、子どもを不利にしないことが重要です。第二に、敗者が食うに困ったり尊厳を奪われてはいけない。敗者が腐らずにいられる仕組みが治安上も重要です。第三に、競争の多元性。学力一般という発想でなく、分野ごとに別の序列が必要です。
父母相手の講演会でこうしたことを話すと肯定的に受け止められます。うすうす分かっているんですよ。創意工夫の必要な仕事に就かない子どもの学力を底上げしても、幸せになれるはずがないと。楽しい人生を送る能力のほうがずっと重要です。
▽人類への無関心
問題は、ちまたで嘆かれる子ども一般の学力低下でなく、創意工夫が要求される仕事につく者の学力低下、つまりエリート教育の失敗です。役割とマニュアルに安んじることが許されない、政財界のイノベーション(革新)を担う人材の不足です。
いわゆる「体温の高い」人間が少なくなったことが背景にあります。9・11(米中枢同時テロ)の後、議論を私に持ち掛けて来だのは帰国学生ばかり。生粋の日本人には生活保守主義が目立ち、人類の将来といった等身大を超えた領域に関心を持つ若者があまりにも少ない。教育の故障がそこにあります。
その意味で総合学習の機能が大切ですが、それを担える教師が不足する以上、文科省による一時的な店じまいも仕方ないでしょう。
日本は他の先進国に比べ、計算能力も識字串も生活態度も優れた労働者が多い。昨今の「学力低下論」は的外れです。
みやだい・しんじ
1959年仙台市生まれ。東京都立大助教授。援助交際から憲法まで幅広い分野で発言。著書に「終わりなき日常を生きろ」「不安の正体!」(共著)など。
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2005.2.25 ブログに掲載