グアム旅行記2000 | ||
2000.5 |
ナム滝の近くで会った老人と子供
ナム滝は島の南西にある小さな滝である。ここへ行こうとせまいオフロードを走っていると、1人のやせた老人が散歩していた。孫だろうか、小さな男の子が自転車で遊びながらいっしょにいる。彼に道を教えてもらい、少し先に車を止めて滝を見にいった。
帰ってくると、彼は車を止めたあたりまで歩いてきていた。ガラガラ声で
「マンゴーを拾いながら散歩しているんだ。」
という。みると手に袋をさげており、小さなマンゴーがいくつか入っている。
「風の吹いた翌日にはもっと大きなのがいっぱいとれる。毎日夕方にマンゴーを拾いながら散歩するのが日課なんだ。孫が好きでね。」
子供は自転車で無心に遊んでいる。
「あんた、韓国人か?日本人か?」
と聞くので、日本人だ、と答えると、
「昔、軍隊にいたとき、東京の近くに住んでいたことがあるんだ。あそこは人でいっぱいで息がつまりそうだったな。」
という。
「その後、韓国にもいった。あそこは冬が寒くてまいったよ。その後はフィリピンだ。台風がよくきたもんだ。そして本国にも何年かいて、ここに帰ってきた。」
「ここはいい所だ。あたたかくて雪なんてふらない。台風もこない。」
彼はしわだらけの顔をクシャクシャにして、3本しかない歯をみせて笑った。そして空を仰ぎ、両手を広げてもう一度いった。
「ここは本当にいい所だ。」
普通に考えると芝居がかったような彼のしぐさだが、少しも不自然にはみえなかった。自然を崇拝したり感謝したりするといったおおげさなものでもない。ただ彼は恵
まれた自然の中で生きていられることを喜んでいるのだと感じた。
やがて子供がこっちにやってきたので、
「ボク、何年生?」
と聞いてみた。彼ははにかみながら
「1年生。」
と答える。
「マンゴーは好き?」
「うん。」
「おじいちゃんと散歩するのは好き?」
「うん。」
そんなやりとりを老人は笑いながら見ていた。やがて子供はまた自転車であっちの方に行ってしまった。
「じゃあ、帰ります。」
「そうか、じゃあな。」
老人に別れをつげ、車に乗るとき、子供にも大声で
「じゃあね、ボク。」
といったが、子供はもう自転車に夢中で、気もそぞろに
「バイ。」
とだけこたえた。老人はもう一度笑った。
タロフォフォの小学校
タロフォフォの町の中で、小学校をみつけた。ちょうど下校時間か、子供達が前庭に集まり、親が車で迎えにきていた。
思いきって先生とおぼしき人に声をかけてみた。学校を見学させてもらえないかと頼む。事務所のほうで申し込んでみてくれ、というのでそちらへ回る。ヘンな訪問者に事務のおばちゃん達はおどろいていたが、やはりさすがはアメリカ。公共施設の公開を拒んだりはしなかった。しかし、
「アンタ行ってちょうだいよ。」
「えー、わたし日本語ぜんぜんわかんないわよ。」
「そうだ、○○は日本語すこしできるんじゃなかったっけ。」
「あの子なら、もう帰ったわよ。」
「えー、じゃーどーすんのよ。」
と大騒ぎである。そりゃそうだろう。日本の田舎の小学校にいきなりアメリカ人が見学させてくれといって飛びこんでくるようなものだ。あまりに申しわけないので、
「あの〜すいません。教室1つ見せてもらうくらいでいいんで・・・・。それに説明は英語でかまいませんから。」
と言ったら、
「あ、そうなの。じゃ、アンタ行ってちょうだい。」
「えー。もーしょうがないわね。わかったわよ、行くわよ。」
ということになって、やっと恰幅のいいおばちゃんが案内してくれることになった。
何年生のクラスをみたいのかと聞くので、じゃあ1年生を、とお願いして、1年生の教室を見せてもらった。授業は終わっていたのだが、ちょうど担任の若い先生がいてビックリしていた。私は彼女の歳を20才台前半だと思ったが、同行したY氏は28才くらいだと主張しており、意見はわかれたままである。
教室は、日本の小学校低学年の教室と幼稚園の教室の中間的なふんいきで、日本の教室よりいくぶん広い。アルファベットや基本的なものの名前、時計や信号のみかた、目や耳などの体の部位の役割、グアム島のことなどを教えているのだという。
時間割をみると、「チャモロ」という授業がある。これは何だと聞くと、外部から講師にきてもらって、チャモロ語やチャモロの音楽を教えているのだという。案内してくれたおばちゃんに聞いてみた。
「子供たちは、学校では何語をしゃべっているのですか?」
「英語です。チャモロの授業以外は。」
「じゃ、家では?」
「たいていは英語ですね。私も子供とは英語でしゃべっています。でも、私の両親とはチャモロ語でしゃべります。」
グアムは中世にスペインに占領され、その後アメリカ領となったから、チャモロ独自の文化はもう何百年も前に西欧文化に蹂躪されてしまったはずである。グアムの人口の9割をこえるチャモロ人たちは、アメリカ国民であり、アメリカ人として生活している。しかし、自分たちチャモロの文化も見捨てることなく守り通している。しかも、それを義務教育の段階できちんとシステム化して教えているのである。
素晴らしいことではないか。 アイヌ民族なんか日本に侵略されて100年ちょっとでアイヌ語を話せる人がほとんど残ってないというのに。沖縄だって同じだ。いずれは日本文化そのものだって消滅してしまうぞ。そうだ、日本でも西洋音楽ばかりでなく、太鼓や笛も音楽の授業で教えたらいいんだ、とヘンな方向に発想をもっていきながら、学校を後にした。
グアムの三大夜景
夜景を見にいこう、ということになった。Y氏が調べたところ、グアムには三大夜景があるらしい。じゃ、全部行ってみよう、ということになって、4人で出発した。実際に行った順番とは違うが、紹介してみよう。
第3位は、ホテル・サンロードの駐車場。ハイアットを出て左にしばらく行くと、右へ登る坂がある。その途中にあるホテルだが、ここからの眺めはたいしたことはない。山や屋根が視界をじゃまするし、ウロウロしているとホテルマンに怒られる。これは全くおススメできない。
第2位は、空港の前の道。え、道?車止められないじゃねーか。視野いっぱいにタモンの夜景が広がるが、なにせ路肩停車して道を横断しなければいけない。少々あぶないポイントである。
第1位はアプガン砦。島内観光に行った人はわかるかもしれないが、スペイン広場の後ろの高台である。ここの展望台からの眺めは格別。色とりどりではないものの、道路の街灯が多いので、実にきれいである。またグアムに行く機会があったらぜひ見ていただきたい光景である。
ただしここはゲイの溜り場でもあるようで、ところどころで男同士が愛をささやいている。チャモロ人の巨体が2つ抱き合っている光景は圧巻で、相撲をとっているのかと思ってしまう。もしかすると私たち4人もカップル2組(あるいはもっと複雑な関係)だと見られていたのだろうか。恐ろしいことである。
帰りかけると、高台のほうから車が大量におりてくるところがあり、警官が交通整理までしている。路肩にも車がズラッととめてある。これはフィエスタか何かかと思い、警官に
「なにやってるんですか?」
と聞いたら、彼は陽気に笑って
「ビンゴ!」
と答えた。はぁ?なんのこっちゃと思っていたら、Y氏が調べてくれて、
「このへんではビンゴ大会があるらしい」
とのこと。うーむ、ビンゴ1つでこの騒ぎかい。よくわからんやつらじゃ。
幻の酒、テュバ
2日目の夜、「チャモロ亭」に夕食にいったところ、飲み物の中に、「ココナッツミルクで作った、チャモロ伝統のお酒・テュバ」というのがある。オーダーしてみる
とこれが強烈な発酵臭である。モンゴルの遊牧民が飲む馬乳酒などと同様、ミルクを発酵させて作る酒なのだ。ソーダやビールで割ってあるのだが、なかなか飲めなくてまいった。
ところが次の日、このテュバを手に入れたくてたまらなくなってきた。ソーダ割りになんかしてない、本物の現地産テュバを飲んでみたい。チャモロ・ビレッジできいてみたが、ないという。テュバは製造メーカーなどなく、すべて自家製らしい。
「あした水曜日の夜はフィエスタだから、その時に来れば飲めるよ。」
と言われたが、こっちはその時はもうグアムにはいないのだ。うーむ、本当に幻の酒で終わるのか。こうなるといよいよ手に入れたくなってくる。次にグアム博物館で事務職員にきいてみた。なんであんなもんが飲みたいんだ、と若い職員が笑う。年配の職員が、いやいや、あれはいいもんだと反論する。
「しかし気をつけたほうがいいぞ。3杯も飲むと引っくりかえっちまうからな。」
「生のまま飲むからだよ。サワーにしたらちょっとはマシだぜ。」
「いやいや、あれはそのまま飲むもんだ。」
と、いきなりのテュバ論議である。女性職員たちは苦笑してみている。このあたりはいずこの国も同じである。
やがてわれわれのことを思い出してくれて、年配の職員があの店ならテュバが置いてあるはずだといって、地図に場所と店の名前を書いてくれ、そのうえ店に電話までしてくれた。
置いてあるらしい。
「日本人が3人そっちにいくから売ってやってくれ。」
と言ってくれた。ダミ声の、フランクな楽しいおっちゃんだった。
教えてもらった店に行くと、おやじさんが、テュバが欲しいそうだな、という。そうだと答えると、ビールなどが入っている大きな冷蔵庫をあけて、3リットルの大きなミネラルウォーターのポリビンを出してくれた。自家製らしい。フタを空けてみると、強烈な臭いが鼻をついた。15ドルで売ってもらったが、アメリカでは自家製のどぶろくを売ってもいいらしい。(???)
唐辛子を入れて、あたたかいところでねかせておくと、どんどん発酵が進むらしい。「おいしい」というものでは決してないが、いいおみやげが手に入ったのでうれしかった。しかし女房はあきれていた。そこで入手にいたるまでの苦労を話してきかせると、女房はもっとあきれていた。
2000年3月5日から8日まで、会社の旅行でグアムに行った時のメモです。
レジャーツアーには一切参加せずに、レンタカーを運転して何人かであてもなくウロウロして、この他にもグアム大学や知事公邸などでいろいろとハプニングがありました。やはり現地で暮らす人たちとの触れ合いが旅の一番の楽しみです。(2004.9.20)