倫理と法・モラル
下図のように整理されます。レベルとして意識レベルと規範(規則・基準・規準など含む)レベルがあります。
意識レベルにあるのがモラルと常識(=共通意識)で、これが源泉となって規範が発生します。規範レベルには倫理と法があります。すなわち、モラルから倫理が、常識から法が発生します。なお、モラルと倫理をあわせて広義のモラルともします。
規 範 | 倫理 | 法 |
↑ | ↑ | ↑ |
意 識 | モラル | 常 識 |
倫理と法の違いは何かというと、倫理は自律的、法は他律的です。つまり倫理はそれを守るかどうかは個人に委ねられ、法は社会(国家権力)が強制します(ほとんどの場合制裁措置を伴います)。
法と倫理は補完関係にあります。法は権利の制限につながるので、その適用が厳格になるのですが、それゆえに「抜け道」ができます。法だけでは、モラルに照らしておかしいと思う(心情的に許せないと感じる)ことでも、法の網を抜ければ万事OKということになってしまいます。
誰も見ていないところで物を盗むという行為をさせないでおこうと思うとき、
(1) 監視カメラ設置などにより、そういう行為を見逃さず制裁を加える
(2) そういうことはやってはいけないという倫理観を醸成する
という、相反する内容の対策(抑止)が考えられます。多く場合、この両方により規範を成立させています。なお、上記例でわかるように、法は摘発・後追い、倫理は未然防止という側面も持っています。
以上、「意識レベルにおけるモラルを源泉として発生した自律的な規範」が倫理です。
参考:「技術者の倫理入門」 高城重厚・杉本泰治、丸善
パターナリズムとは、相手にとって良いことを、あたかも親であるかのように他者が判断することです。またインフォームドコンセントは、十分な情報を与えた上で当事者が自分で判断することです。
わかりやすい(と私が思う)例で説明します。
ガン患者がいるとします。医者のとる行動に2つが考えられます。
(1) 告知はせず、患者のために良いと思う措置を取る。
患者には「安心して私に任せてください」という接し方をする。
(2) 告知は無論、いろいろな治療法とそれぞれの長所短所を説明する。
その上で、患者自らの主体的判断を求め、それに応じた措置を講じる。
前者がパターナリズム、後者がインフォームドコンセントです。かつては前者が支持されていましたが、今は後者が支持されています。もちろん適性試験の解答は後者を望みます。
パターナリズムが否定される理由がよくわかる例をあげてみましょう。
●ある国では、不衛生で平均寿命も短く乳児死亡率も高い伝統的な生活様式を送る人たちがいる。援助あるいは企業進出に伴い、現地に衛生的な近代的居住環境を用意した。しかし現地の人は転居したがらない。そこで国家権力の手でほぼ強制的に移住させた。
●偶像崇拝の原始的宗教を廃棄し、キリスト教を布教した。
要は「親切の押し売り」、「価値観の押し付け」ですね。アメリカが力ずくで進める「アラブ社会の解放」はかなり明らかなパターナリズムです。
ところで、この「押し付け」がなければ、高い死亡率や原始宗教に伴う生贄その他、政治的抑圧などの様々な「不幸」が予測されるでしょう。「だからそれを取り除いてあげる」という発想は、親が子のために高次の判断で行うことに似ています。しかし現在の技術者倫理では、たとえそうであっても、当事者に判断を委ねるべきであるとしています。もちろんそれは、そういった予想される問題点・リスクを伝えた上でのことですが。このような考え方は、民族自決権にもつながるものです。
インフォームドコンセントの典型的事例としてよく取り上げられるのは、スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故です(エピソードの概要はこちら)。
打ち上げ当日の低温環境下では、「Oリング」と呼ばれる部品の遮蔽性に問題が生じ、燃料が漏れる危険性があることが、ある技術者によって認識されていました。しかし会社上層部がこれを公にしないようにし、結果として事故に至りました。現代の技術者倫理は、Oリングの問題は乗組員に知らされるべきであった、そして乗組員が飛行の可否を決定するチャンスを提供すべきであったとしています。
このようなことを踏まえ、建設部門における事例について考えてみましょう(実際の試験では建設部門に関わる事例が取り上げられる可能性は低いでしょうが)。
土石流や火山・地震など、自然災害の危険性について、住民に知らせるべきでしょうか。
いたずらに不安な思いをさせず、住民の知らないところでその危険を取り去ってあげよう・・・・これはパターナリズムです。
インフォームドコンセントは、情報を正しく伝え(正しく伝えるということはきちんと理解してもらうということ)、その上で住民の判断を待つことになります。このことから、インフォームドコンセントが成立するためには、アカウンタビリティ・情報公開が必要不可欠であることがわかります。
また、インフォームドコンセントのためには、これを与える側(患者や住民)にも身勝手・わがままを抑え、冷静な行動や公共心、すなわち善意と理性が要求されます。このあたりはPIや市民主体のまちづくりなどにつながります。すなわち、自分の損得ばかり考え、感情や気分で判断・行動するような人は、PIや市民主体のまちづくりに参加する資格はないことになります。
なお、インフォームドコンセントを「よく知らされた上での同意」と表現することも多くあります。
参考:「技術者倫理の世界」 藤本温編著、森北出版
参考:「科学技術者の倫理~その考え方と事例」 日本技術士会訳編、丸善
以下、テキスト類から「公衆」の定義について書いてある部分を抜き出してみます。
●「技術者の倫理入門」 高城重厚・杉本泰治、丸善
人々が「公衆」の一部とされるのは、その人々が技術行のサービスによって、その結果について自由なまたはよく知らされたうえでの同意を与える立場にはなくて、影響される場合である。つまり、「公衆」は、ある程度の無知、無力、および受動性という特性をもつものとされる。
●「第2版 科学技術者の倫理~その考え方と事例」 日本技術士会訳編、丸善
より妥当な公衆の定義は、人々を公衆の一部とするものは、技術行の製品及びサービスの影響に対して、自由なインフォームド・コンセントを与える立場になく、それらの影響されやすいという主張と共に始まっている。「公衆」は、ある程度の無知、無力、そして受動性という特性を持つものとされる。この解釈によれば、「公衆」とは、情報、技術的知識、あるいは熟慮する時間を十分に持っていないために、技術者が彼の依頼者又は使用者のために行使する権限によって、多少なりとも傷付けられやすくなっている人々のことである。
これらから明らかなように、情報が不足している、あるいは理解できないなどの理由で、主体的判断ができず、ゆえにインフォームドコンセントを与えることができない(平成15年度試験では「同意を与えることのできない」と表現されました)状態に置かれた人・人々を「公衆」といいます。
専門職業人(プロフェッショナル)は一般に以下の5つの特性で非専門職業人と区別されます。
(1) 高度な専門的応用知識を有している。
(2) 専門職の知識・技量は社会の幸福に不可欠である
(3) 専門職サービスについて独占権またはそれに近いものを持っている。
(4) 高度な個人的判断と創意工夫を有するがゆえに自らの決定権(自治)を有する。
(5) 上記による地位乱用を防ぐため、倫理基準による自己規制が求められる。
(1)~(4)のように、専門職業人は高度な知識・技量を有するがゆえに、社会から信頼され、独占権・決定権といった力を持つことを社会から許されます。
その信頼を裏切ることのないよう、専門職業人は自らを厳しく律する必要があるのです。
参考:「科学技術者の倫理~その考え方と事例」 日本技術士会訳編、丸善
利益の相反
様々な理由(外的影響力や誘惑、別の利益など)により、顧客・依頼人が自分に期待している利益を小さくしてしまうことです。ちょっとわかりにくいので例示します。
管理技術者が、下請け業者に友人・肉親などを指定する。もっと安くてよい仕事をする業者がいる。
ここにおいて、クライアントはもっと安価にできるはずの事業に不要なカネを支出する必要が出てきます。これが利益の相反です。
たとえばNSPE(全米プロフェッショナル・エンジニア協会)は次のように定めています。
技術者は、自らの専門職業の義務が、相反する利益によって影響されないようにしなければならない。
a.技術者は、材料または設備の供給者から、その製品を指定することに対する経済的またはその他の報償を、無料の技術業の設計を含めて、受け取ってはならない。
b.技術者は、それに対し自らに責任がある仕事との関係で、自らの依頼人または使用者と取引する請負契約者またはその他の当事者から、直接または間接に、手数料または割戻し量を受け取ってはならない。
利益の相反には、事実上(実際にそれが起こっている)、潜在的(今後起こり得る)、外見上(起こっていないが起こっているように見える)の3種類があります。外見上というのは、たとえば最適な下請け業者を選んだが、それがたまたま肉親である場合、「最適だから」ではなく「肉親だから」選んだと思われるといった状況です。
特に外見上の利益の相反を避けるため、利益の相反(あるいは疑われそうなもの)は開示すべきであるとされています。
肉親の会社に下請けに出す場合、それが最適な判断であるという資料とともに、肉親の会社である事実も開示し、クライアントのインフォームドコンセントを保証するということです。
参考:「第2版 科学技術者の倫理~その考え方と事例」 日本技術士会訳編、丸善 p.158~159
利益の相反の解決法ですが、基本的にはまず、どちらが優先するかを判断します。
これで優先度が明らかな場合はそちらを取りますが、そもそもこういう場合は利益相反とは言わないことのほうが多いと思われます。
(例)友人との会食に遅れそうなので急いでいたら子供が川で溺れている。助けに行くべきか?
実際に問題になるのは(そして試験で出題されるのは)優先度が決められない場合です。このような場合、最も適切な解決法と言われるものに創造的第3の解決法があります。
どちらの利益のみを優先することもできないとき、両利益の要求事項のいくつかを取り込んだ中間的な第3の選択肢を取るというものです。
実例としては、マーチン・ルーサー・キングやガンジーが取った「非暴力抵抗」があります。倫理・モラルに反する法には従わないが、その法に不服従であったことの責任は取る(法を尊重する)というものでした。社会体制に反対するとき、自分の信念と市民として社会規範に従うべきであるという2つの利益が相反します。自分の信念のみを優先し、社会規範には従わないということになると、これは暴力・テロに至ります。自分の信念に従い、しかし社会規範にもできる範囲で従った結果が非暴力抵抗であったということです。
環境に配慮して事業を進めた結果利益を圧迫して株主に非難される企業は、利益確保責務と環境保全責務が相反しています。この創造的第3の解決法の1つは環境会計・トリプルボトムラインでしょう。企業決算を利益だけを尺度にせず、利益と社会貢献、環境保全への寄与の3本立てで企業決算とするものです。※もしあなたが「決算というとカネ以外の尺度は考えられない」と思うなら、それは頭の硬直化の危険シグナルですよ・・・・^^;)
こんなムズカシイ事例でなくとも、たとえば「生活に困っている人に援助したいが自分には生活していくのにギリギリの金しかない。といって不正な手段で金を得ることはできない」と悩んでいる人に「それなら募金活動をしなさいよ」とアドバイスする、これが創造的第3の解決法です。
功利主義
倫理学には、「功利主義」という考え方があります。これは、倫理学の三理論といわれる徳倫理学、義務倫理学、帰結主義的倫理学(功利主義)の1つです。
徳倫理学は行為者に着目します。ウソをつくということはだめな人間になることだからウソをついてはいけません」という考えです。
義務倫理学は、行為に着目します。「ウソは他人を欺く悪しき行為です。それにみんながウソを言ったら困るでしょう。みんなが同じことをしたら困るような好意をしてはいけません」という考えです。
帰結主義的倫理学(功利主義)は結果に着目します。「ウソをつくと信用を失うという悪しき結果をもたらします。それにみんながウソを言ったらお互い信用できなくなり、社会によい結果をもたらしません」という考え方です。
さて、功利主義では、倫理的に正しい行動は、最大多数の最大幸福を実現する行為であるとされます。
功利主義的な取組みには以下の3つがあります。
(1) 費用便益分析
プラス・マイナスの功利を金銭的評価に変換することで功利主義の基準をできるだけ定量的に推し量ろうとするものです。
(2) 行為功利主義
この行為は、他に取りえるどの方法よりも多くの幸福を生むことができるか?と考えることです。
(3) 規則功利主義
たとえば交通規則のように、功利を大きくすることを規則化して従わせるという考えです。
功利主義は、規則功利主義がそうであるように、個々人の自由な裁量をあまり当てにしません。自己判断をし、その結果を自己責任として受け入れるということをあまり推し進めると、個人にとって過酷な状況になりかねません。これを緩和するという効果はあります。
一方で、多数決の論理になってしまい、少数意見の切捨てに陥りやすいという面も持っています。
なお費用便益分析は、誰の幸福を追求するかということを十分考えて計算を行わねばなりません。フォード・ピント事件(エピソードはこちら)のように、企業の立場だけを考慮して行われる費用便益分析は、功利主義ではなく、ビジネス上の効用計算にすぎません。
参考:「第2版 科学技術者の倫理~その考え方と事例」 日本技術士会訳編、丸善
参考:「技術者倫理の世界」 藤本温編著、森北出版
内部告発
ディジョージは、内部告発の道徳的正当化の5つの条件をあげています。これは、いわば内部告発チェックリストといえるでしょう。
(1) 一般大衆に深刻かつ相当被害害が及ぶか?
(2) 上司へは報告したか?
(3) 内部的に可能な手段を試みつくしたか?
(4) 自分が正しいことの、合理的で公平な第三者に確信させるだけの証拠はあるか?
(5) 成功する可能性は個人が負うリスクと危険に見合うものか?
ディジョージによれば、(1)~(3)が満たされれば内部告発は道徳的に許されます(内部告発してもよい)。さらに、(4)と(5)も満たされれば内部告発は道徳的に義務となります(内部告発すべきである)。
他にも内部告発の是非を判断する基準はあります。たとえばボウイ&デュスカの基準は以下のようなものです。
(1)適切な道徳的動機から行われていること。
(2) 告発の前に、自分の意見を内部のすべてのチャンネルを利用して伝えていること。
(3) 内部告発が理性的な人達を説得し得る証拠に基づいていることを告発者が確信していること。
(4) 道徳違反の深刻さ、切迫さ、特定性などについて注意深い分析をしてから行動していること。
(5) 内部告発が、道徳違反を回避し、暴露することの責任とつりあっていること。
(6) 成功する可能性があること。
成功する可能性を重視しているのは、成功の見込みのない内部告発はするなということではなく、正当化されることが少ないということです。このように、内部告発の基準はおおむね似たような内容です。
ところで、内部告発と似た用語に「警笛鳴らし」(whistle-blowing)があります。これは、組織が重大な不正を犯していると被用者が考える場合に、その被用者が公表することです。まるっきり内部告発と同じでは?といと思えますね。警笛鳴らしは一般に名乗るか、名乗るまでもなく身元がわかります。対して内部告発は、匿名という方法があります。
すなわち、組織の被用者が組織の不正を公表する行為は内部告発で、名を名乗ってそれをするのを特に警笛鳴らしというと覚えておけばいいでしょう。
警笛鳴らしは名乗るがゆえに本人が不利な扱いを受ける可能性が高く、それゆえに保護が必要になります。このための法律がいろいろと整備されつつあります。
人間の尊重
功利主義と並ぶ倫理の理論が、カントの思想である人間尊重倫理です。人間尊重には3つの取り組みがあります。
黄金律
「自分がされて嫌なことは他人にもするな」という判断基準である。
我々(行為者)がその行為によって影響を受ける人(受領者)と立場を交換することを喜んでやるかどうかで判断する。喜んでやれば、それは倫理的行動である。
ほとんどの宗教で、これはうたわれている。
自滅基準
たとえば、お金を借りて返さないということをみんながやれば、信用してお金を貸すことはできなくなり、結果的に自分も借りられなくなる。
また、ケンカを制止しようとひてケンカしている当人を殴るということをみんながやれば、それはケンカになってしまうので、当初の目的が達成できなくなる。
つまり、自分がやることと同じことをみんながやれば、自分自身の自滅にならないかという判断基準である。
人権
たとえば生きる権利を持つということは、他者は殺さない義務を持つということである。つまり、我々は有する全ての権利に対して、他社はそれに対応する不干渉の義務を負っている。その多くは法により厳格に守られる。生命、身体・精神の健康、自由、所有、宗教、差別、プライバシーなどである。